[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる (amazon)
Aftershock: The Next Economy and America's Future(amazon)
イントロダクション「歴史は繰り返す?」
なぜ多くのアメリカ人が経済的に苦しいままなのか?
なぜアメリカの政治がこれほど怒りに満ちているのか?
これから数年の間、アメリカ人はどんな根本的選択を迫られるのか?
本書の目的はこの点を読者に示すこと。
この三十年、所得全体に占める勤労世帯の収入割合はますます小さくなり、より多くが富裕層上位に集中している。つまり、所得と富が富裕層トップに集中している。
富裕層以外の購買力は弱くそのため経済は好況を維持することが難しい。
所得と富が富裕層トップに集中していることが、米国経済が直面する苦悩の核心。
この問題に取り組まない限り、米国に底堅い好況はやってこない。政治が混乱し、保守化するおそれがある。
中間層が十分な購買力を持たない限り、確固たる経済回復は望めず、経済は長期にわたって停滞する。
第Ⅰ部 破綻した取引(The Broken Bargain)
第一章 エクルズの洞察
マリナー・エクルズはアメリカの実業家で1929年の大恐慌を経験した。
エクルズは大恐慌について「大きな経済力を手にした人間達が、経済ゲームのルール形成に過度に影響力を持っている」と指摘した。経済ゲームが公平なものではなく、富と権力が集中した一握りの人々を利するものになっていると判断した。
エクルズは1933年2月の上院財政委員会の公聴会で「政府は消費者や企業の支出不足を相殺するため債務を増やすべき」と発言、「中間層に富を移転する具体的プログラム」を提案した。
1950年に引退したエクルズは、回顧録の中で大恐慌の主因を「富の偏在」だと結論付けた。一握りの富裕層の下に膨大な所得が蓄積され、他の階層の購買力を吸い上げてしまった。
「不平等の拡大が大恐慌を引き起こした。」これこそがエクルズの最重要の洞察。
第2章 二つの恐慌の類似性
エクルズの洞察は、最近何処かで聞いたことのあるような内容だろうが、それは偶然ではない。
1929年の大恐慌と2007年の大不況の類似点を3つあげる。
類似点(1)所得格差が拡大した。
類似点(2)中間層が消費を続けるために負債を膨らませた。
類似点(3)米国の富裕層は増大する所得と信用を利用して限られた資産に投資し、バブルが発生した。
1920年代と2000年代の相違点。1920年代、政府は改革に取り組み(改革の詳細は後の章で取りあげる)、新たな経済秩序をもたらした。いっぽう2007年に始まった大不況は新しい経済秩序をなんら創出していない。
オバマ政権は多額の資金を投入することによって大恐慌の再現を防いだ。しかし、その結果より重大な問題を後回しにしてしまった。
第3章 あるべき取引
ケインズは失業の原因は「需要の不足」であり、一般労働者の購買力が彼らの生産物を変えるほど大きくはないことに起因すると考えた。(「総需要の維持」の重要性)
またケインズは「消費性向を高めるような所得の再分配を行えば、資本形成に好適な状況となる」とも書いている。(筆者の言う「基本的な取引原則」の実践)
第4章 富の集中が不況を招く
エクルズが指摘し、ケインズが理論化した経済問題、それは「所得が比較的少数の人々に集中すると、財とサービスに対する全体的な需要は縮小する。」総需要にもっと着目すべき。
経済成長の果実を広範に共有するシステムを作るには、金融経済だけではなく実体経済にも着目すべき。
第5章 政策当局が金融経済を怖がる理由
経済の政策立案者は「金融業界の健全性は、実体経済の繁栄の前提条件である」「ウォール街が活況を呈すれば、実体経済も必ずそれに続く」と思い込んでいる。
しかし、実体経済の住人である企業がウォール街に依存するようになったのは比較的最近の現象。それまで、企業は資金を地方銀行や貯蓄貸付組合から調達していた。
クリントン政権時代に投資銀行と商業銀行を分離していた法律が廃止された。
結果として、ウォール街の主機能は金融の衣をまとった賭博に変わってしまった。以来、金融経済と実体経済はかけ離れたものになってしまっている。
第6章 大繁栄時代 1947~75年
1947年から1975年にかけての30年近くを「大繁栄時代」を呼ぼう。この時期にはアメリカ全土できちんと「基本的な取引」が実施されていた。つまり、労働者が生産していたものを購入できるだけの十分な給与が、労働者に支払われていた。
政府は中間層に繁栄の分け前を十分与えられるような「コンディション」を積極的に整備した。
ルーズベルト大統領はケインズ主義の正しさを証明することになった。それはニューディール政策によってではなく、第二次世界大戦時における驚愕の軍事支出によって達成された。
労働条件の向上、失業給付、各種の社会保障制度、高齢者と貧困層向けの医療保険が導入された。安心と安全が国民に供与された結果、労働者はより多く消費するようになった。
東西冷戦による防衛支出の拡大は民生分野への余剰効果を生み出し、産業を発達させた。
政府は、こうした政策の歳出を、所得を急増させつつ拡大する中間層からの租税負担でまかなっていた。高所得層の所得税率は戦時中と同じ高い水準に据え置かれた。しかし、高い税率もアメリカの成長や繁栄を妨げることはなかった。
「大繁栄時代」は所得の広範な分配が経済成長と両立可能であり、むしろ経済成長に不可欠であることを証明した。
第7章 歴史は繰り返す
1980年代に入り、時間当たりの産出量(生産性)が上昇し続けるいっぽうで、一時間当たりの平均実質報酬は伸び悩むようになった。
報酬の伸び悩み、所得の伸び悩みの原因として「グローバル化」や「オートメーション化(機械化)」を挙げる人は多い。しかし、アメリカ人の働き口を減らしたのは貿易や技術ではない。
ここ三十年の失業率の増減は景気サイクルと軌を一にしている。問題はむしろ人々の「賃金」が上昇していないことである。1980年から2000年にかけてアメリカの賃金の中央値は横ばいになっている。その一方で、大企業やウォール街の頂点で仕事をする「才能ある人材」に支払われる報酬は急上昇している。
この時期の政府の政策。規制緩和と民営化、公的高等教育の受益者負担増、インフラ老朽化の放置、セーフティーネットの縮小、所得税率の軽減と中低所得者層の租税負担の増加。確定給付年金から確定拠出型年金への制度変更、医療保険制度の変更。
企業による雇用と賃金のカット、手当ての引き下げ、労働組合の弱体化も進んだ。
また政府は金融自由化を進め、金融業会の損害を補填した。これによって、金融部門はアメリカ産業界の支配者になった。彼らは長期的利益よりも短期的利益を求め、アメリカ経済を食い物にした。
なぜアメリカ経済の振り子は「大繁栄時代」から逆戻りしてしまったのだろうか。
その原因は所得と富が一部の人に集中したことによる。アメリカの政治は「大きな経済力を手にした人間たちが経済ゲームのルール形成において過度な影響力を持つ」状態(かつてマリナー・エクルズが指摘した状態)に逆戻りしたのだ。
政治運動に莫大な献金を行い、数多くのロビイストや広報コンサルタントを動員し、富裕層は数々の法改正を成し遂げ、その結果、さらなる所得と富を手にした。
第8章 消費し続けるアメリカ人-三つの対応メカニズム
アメリカ人が経済の「振り子の逆戻り」を受け入れたのは、自分達でその影響を和らげることができたからでもある。
1970年代後半から、アメリカの中間層は「三つの対応メカニズム」に磨きをかけ、「大繁栄時代」と同じ消費を続けた。
対応メカニズム1-女性が労働市場へ進出する。これは過去四十年に起きた最も重要な社会的経済的変化であり、アメリカの家族を再形成した。
対応メカニズム2-誰もがより長い時間働く。2000年代の大不況が起こる前までに、アメリカ人の平均年間労働時間は2200時間を超えていた(これは日本を超える長時間労働)
対応メカニズム3-貯金を取り崩して限度一杯に借り入れる。対応メカニズム1・2が機能しなくなったあと、アメリカ人は貯金を切り崩し、借金を増やした。
このように中間層の消費者は「最後の手段」として借金漬けになった。賃金は上昇しない中で、それまでと同じ消費を続ける方法が借金だった。しかし、それも現在では不可能になった。
第9章 対応メカニズムのない未来
オバマ大統領は就任時、喫緊の課題であった米国の巨大な債務、住宅ローン問題、金融システムの救済に目を向けた。
しかし「経済の基本的取引」が復活しなければ、経済は不安定なまである。たとえ経済が回復したとしても、それに持続性はない。
第8章で書いたアメリカ国民の「対応メカニズム」はもはや通用せず、対応策は尽きている。女性も男性も、長時間働く意思と能力があっても、それに見合う仕事の数も労働時間もない。
長期的には雇用ではなく「賃金」が課題になる。雇用はそのうち回復するだろう。しかし、賃金は低くなり、不平等が拡大する。しかもアメリカ人の多くは借金をあっ変えている。
結果として中間層の消費は大不況の前と比べて少なくなるだろう。買換え需要はあるものの、それだけでは持続的で力強い回復は不可能だ。
アメリカの富裕層が消費を牽引するという意見があるが、元気な中間層なくしてどこから十分な需要が生まれるというのだろうか。
第10章 中国がアメリカを救わない理由
2009年のG20サミットでオバマ大統領は「アメリカ人にもっと貯金をさせ、中国人にもっと物を買わせる」ことによってアメリカを救うという考えを示した。
しかし中国はオバマの言う「再均衡」とは逆の方向に進んでいる。モノの生産は急増しているが、消費者が手にする分け前は減少しつつある。中国は生産を指向しているが、消費を指向していない。
中国は今後も固定相場制を維持し、元の対ドルレートを安値にとどめておくだろう。
以上のような理由により、米中貿易の「均衡を取り戻す」という課題は、成功の可能性が低い。
第11章 もう普通には戻れない
根本的問題は、アメリカ人がもはや、アメリカ経済が生産できるありとあらゆるものに見合う購買力を有していないことにある。その理由は、国民所得が上位の富裕層に向かう割合が増えているからである。
破綻しているのは「経済の基本取引」なのである。そして、この取引を再度作り直すことこそが解決策なのだ。
オバマ大統領は、銀行救済と緊急経済対策は「大不況」が新たな「大恐慌」に転じるのを防いだ。しかし、まだ「経済の基本取引」に責任を持つまでには至っていない。
経済を成長させつつ、アメリカの「経済の基本取引」を回復させることが必要だ。
これは経済的課題であると同時に政治的課題でもある。抜本的に新しい経済が求められている。資本主義に新しいステージが必要だ。
第Ⅱ部 反動(Backlash)
第12章 2020年大統領選挙
第13章 経済をめぐる政治-2010年~20年
第14章 「前より減ること」に満足できない理由
第15章 損失の痛み
第16章 損失にのしかかる屈辱感
第17章 富が集中するように仕組まれたゲーム
第18章 怒りの政治
これから10年間で起きそうなことを検証してみよう(悪い未来予想)。
景気刺激策の後に、連邦準備制度理事会がマネーサプライを引き締め、金利を引き上げる。しだいに雇用創出が止まり、経済成長は鈍化する。結果として、アメリカの労働者の賃金はさらに低下し、貧困に直面することになる。
アメリカ人の多くが、自分たちが想定している生活水準からの大幅な低下を経験する。行動科学研究によると損失による苦しみの度合いは、獲得による喜びの度合いを上回る。生活水準の低下は強いストレスをもたらす。
特に中間層のアメリカ人にとって一番辛いのは「将来は今より物質的によい生活が出来るはずという期待」を諦めなければならないことだろう。それは大きな失望をもたらす。
しかも、富裕層との格差は拡大し、中間層は富裕層より格段に低い生活水準に自分を合わせなければならない。収入格差が広がり続けると、アメリカ人はさらに強い喪失感を感じ、自分が貧しくなったと感じ、不満を募らせる。
そして最後に「もしかしたらすべて仕組まれた経済ゲームではないか」という疑い、「巨万の富と権力を持つ人々が立ちはだかっているから、いくら頑張っても豊かになれないのだ」という考えが生じる。その感情は社会にとって相当毒のあるものになる可能性がある。出来レースで負かされたとなれば人は怒り狂う。
社会変動に対応する手段を持たず、以前よりも貧しく、弱い存在になったと感じる中間層は、企業や富裕層の巨額の献金、ロビイスト達の高額の報酬、政府が大企業の権益を増進していること、税の逆進性などにより強い関心を向けるようになる。
国民の「政治不信」が「政治への怒り」へと変化する。それに乗じて愛国主義や孤立主義、不寛容や妄想主義を伴う政党・政治家が登場する。
既に、アメリカ国内にはその兆候と思える出来事が生じはじめている。
アメリカは伝統的に、国民の経済的な苦悩や怒りが爆発する前に、改革に取り組んできた。今回も、それを行わなければならない。
第Ⅲ部 まっとうな取引を取り戻せ(The Burgain Restored)
第19章 何をすべきか - 中間層のための新しいニューディール政策
経済的不平等状態は、アメリカ人に二つの脅威を突きつけている。
ひとつは経済的脅威。アメリカの中間層が正当な分け前を受け取れない限り、この国の生産能力に見合う消費は起こらない。必然的に経済は低成長となり、巨大なバブルや極端な暴落を誘発しやすくなる。
もうひとつは政治的脅威。広がる格差は「大企業と金融業会は、大きな政府とぐるになって金持ちをよりリッチにしている」との国民感情とあいまって、扇動家達に出る幕を与えてしまう。彼らは目的のために全体の繁栄を犠牲にすることも厭わない。
では、どうすればよいか?そのための私案を述べる。私案は全ての問題を一気に解決するわけではないが、本来あるべき「基本的な取引」を取り戻すことに役立つだろう。
提言1 負の所得税(給付つき税額控除)の導入。
提言2 炭素税の導入。
提言3 富裕層の最高税率の引き上げ。
提言4 失業対策よりも再雇用制度(賃金保険、職業訓練)
提言5 世帯収入に応じた教育振興権(スクール・バウチャー)の発行。
提言6 卒業後の所得水準に応じた学生ローン。
提言7 メディケア(公的医療保険)をすべての国民に。
提言8 公共財(公共交通機関、公園、公共保養施設、公立博物館、図書館)の拡充
提言9 政治とカネの決別(政治献金を「白紙委任」として候補者は誰からいくら献金されたかわからないようにする)
第20章 どうすればよいか
上述した対策は非現実的な政策ではない。実践的で実行可能なものである。しかし、実行するにはあらゆる社会階層からの協力が必要になるだろう。
オバマ政権は、経済的な決断を先送りしてきた。しかし、いまや中間層の三つの対応メカニズムも破綻しており、先送りは長続きはしないだろう。
中間層がモノやサービスを買えなくなれば、企業も年を追うごとに利益が出せなくなる。国民の怒りは企業経営者や富裕層に向かう。
現状を打破する解決策がとられなければ、アメリカ社会は「民主党と共和党」「リベラル派と保守派」の対立ではなく「エスタブリッシュメント層と怒れる大衆」の対立が生じるだろう。
アメリカの政治経済には振り子が存在している。アメリカは今「経済成長の恩恵が限られた人に集中する時代」から「より多くの人にいきわたる時代」へと戻ろうとしている。
問題は、振り子が「どのように」戻るのかである。つまり、改革が繁栄の輪を広げるのか、それとも米国を他の社会から切り離し、経済を縮小させ、アメリカ人同士が争うような社会を目指して扇動主義がはびこるのか。
私(筆者)は前者に賭ける。アメリカには膨大な抵抗力と常識の蓄積がある。アメリカ人はこれまでいかなる国家的な危機に直面しても、なすべきことをやり、南極を乗り越えてきた。
国家の所得や富の大部分を獲得するごく少数の人々と、減っていく残りの富を分け合うその他大勢とが分断されているような国は、決して立ち行かない。経済活動の真ん中で「基本的な取引」が壊れたままでは米国の成功はない。
米国は改革することを選択するだろう。なぜなら、私たちは分別がある国民だからである。「改革」だけが分別ある唯一の選択肢なのだ。
(要約終わり)
(むごい仕方でまた時に
やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる
私に始めてひとりのひとが与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを聴いていた
私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ
私はいつも世界のものだから
空に樹にひとに
私は自ら投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるため
……私はひとを呼ぶ
すると世界がふり向く
そして私がいなくなる
- 谷川俊太郎「62」
「魔法少女まどか☆マギカ」は「システム」「ルール」という極めて現代的な視点から「セカイの秘密」を平易に説く、完成度の高い作品となった。幾つかの視点から本作の価値について書きとどめておきたい。
最終回の「オチの付け方」に左程の「新しさ」はない。「主人公の自己犠牲によって全ての因果が解放される」というキリスト教的な「自己犠牲-救済」のオチに既視感をおぼえた人は少なくないだろう。「主人公が因果を超えた超-存在となる」というオチはアニメでもお馴染みのオチの付け方である。
しかし、凡庸な作品の場合「主人公が因果を超えた超ー存在となり全ての因果を解放する」という「大オチ」は視聴者にとって「強引」に感じられるケースが多かった。当然である。そもそも「因果を超えた超-存在になる」などということ自体がむちゃくちゃな話なのだから。しかも「そういうむちゃくちゃな話が生じえる」ということが事前に説明されないケースも多い。
押井守の映画「攻殻機動隊」は、こうした過去作品が繰り返してきた「強引さ」への反省が見られる。「ネットワーク・システム」という視点から「作品世界のシステム・ルール」を理詰めで説明し、その上で「主人公が因果を超えた超-存在となる」という「大オチ」を鮮やかに描いてみせた。「因果を超えた存在になる」というそもそもが無茶なオチを「理詰めで納得させる」ことにチャレンジして見せたのだ。
「魔法少女まどか☆マギカ」はこの映画「攻殻」の系譜に連なる。スタッフ達は最初から「まどかが因果を超えた存在になって全てを解放するというオチ」に向けて物語を周到に構築している。ドラマを通じ、またQBの説明を通じ、視聴者は「感情・感覚」「理屈」の両面から「セカイの秘密」を叩き込まれる。全てが「最終回の大オチ」のために丁寧に準備されている。その周到さ、「オチに至るまでの説明のクリアさ」は過去作品と比べても極めて高水準。本作の第一の価値は「既存の作り方を高い水準と完成度で達成している」点にある。
繰り返すがアニメだけではなくSF作品やブンガクなどを見れば、こうした作品の作り方自体はそれほど新しいものではない(たとえば80~90年代の日本文学では、こうしたタイプの作品が数多く見られたし、SFではそれ以前から数多く見られる)。ただし、テレビアニメの世界で、しかも「魔法少女モノ」というフォーマットでこれだけの周到な構築と完成度を達成した作品はそうはないだろう。
次に本作の価値として挙げたいのは、作品世界の「設定」の現代性だ。「攻殻」が「ネットワーク」という視点から作品世界を構築したの対し、「まどか☆マギカ」は「宇宙のエネルギー供給システム」という視点から作品世界を構築した。評価したいのは、この視点の持つ「生々しさ」だ。「人間の感情をエネルギー源として回収・消費する」という発想には「科学的リアリティ」は全くない。しかし、その設定に我々は「感覚的なリアリティ(生々しさ)」を感じることができる。
「生々しさ」を感じる背景には、我々の社会が「心」や「関係性」を本格的に「消費の対象」としはじめていることがあるのではないか(この点については具体的根拠をあげるの大変なので、とりあえず指摘するだけにとどめる。卑近な例で言えばサービス業における「感情労働の強制」の問題や、「家族」関係や「恋愛」関係の多様化、企業による「洗脳」的な社員管理の問題などが挙げられる。)
また「制度やシステムが人を動かす」「システムを改善することによって不幸を最小化する」という発想自体も優れて現代的といえるだろう。正直「社会制度設計」の問題をアニメーションで表現するのは難しいだろう、と思っていたのだが「まどか☆マギカ」はそれを「寓話」的に見せることによってうまくクリアしてみせた。
「システム」が改変されたとしても全てが解決するわけではなく、そのシステムの中でやはり齟齬や葛藤や闘争は続く、という冷静な視点も現代的である。それでも問題のあるシステムは改善されるべきだし、それによって世界が「幾分マシな場所になる」ことには大きな意味がある。そうやって人類は進歩してきたのだ、というメッセージは熱く、重く、現代だからこそ響く内容ではないだろうか。本作の第二の価値はそこにある。
付け加えるなら、本作は「映像的説得力」もとても高い作品だった。「少女の希望と絶望の相転移でエネルギーを」などというトンデモ理論をなんとなく「アリ」に思わせてしまうには映像と音楽と声優の演技の強力な力が必要。新房総監督とシャフトはそのミッションを見事に果たしたといえる。劇団イヌカレーによる魔法世界のデザインの果たした功績も大きい。
他にも本作の価値を幾つか挙げておく。
「脚本を最初に作りこみ「結末」から計算して映像や意匠を作っていく」という制作手法。当たり前と思われがちだが、意外と日本アニメでは非主流だった。今後、こういう作り方が主流となることを強く望みたい。
「オリジナルアニメを商売として成立させる」ための各種の取り組み。有名クリエーターの意外な組み合わせで話題を確保する、テレビ版と同時進行する漫画版やスピンオフ漫画で稼ぐ、といった手法は、これまでのメディアミックス戦略をより先鋭化させ、計画的に行われている。この周到さは他スタジオ・製作会社も参考に出来ることが多いのではないか(もっとも原作が良くなければ幾ら「仕掛け」だけが優れていても無駄なのだが)。
「劇団イヌカレー」「虚淵玄」などアニメ業界とは異種の才能を積極的に取り入れ、見事に成功させた点も本作の価値だろう。ガイナックスも中島かずきという才能を得て「グレンラガン」を成功させている。こうしたクロスオーバーが今後も活発になることを望みたい。
2010年代アニメの豊穣を予感させる素晴らしい作品を作ってくださったシャフト他スタッフの皆さんに惜しみない拍手を。素晴らしい仕事。傑作をありがとうございます。
タイラー・コーエン著(高遠裕子訳)「インセンティブ 自分と世界をうまく動かす(原題"DISCOVER YOUR INNER ECONOMIST")」の要約。
インセンティブ 自分と世界をうまく動かす(amazon)
DISCOVER YOUR INNER ECONOMIST(amazon)
目次
第1章「バナナなら買える。けれど、市場にないものも欲しい」
第2章「世界をうまく動かす方法―基本編」
第3章「世界をうまく動かす方法―応用編」
第4章「芸術を真に楽しむために「足りないもの」は何か?」
第5章「シグナルは語る―家庭でも、デート中も、拷問のときも」
第6章「『自己欺瞞』という危険だが不可欠な技術」
第7章「とにかくおいしく食べるきわめつけの極意」
第8章「七つの大罪の市場―その傾向と対策」
第9章「クリスマス・プレゼントは世界を救うだろうか?」
第10章「内なるエコノミストとわれら文明の未来」
第1章「バナナなら買える。けれど、市場にないものも欲しい」
○経済学の核となる概念は「カネ」ではなく「インセンティブ」。「インセンティブ」とは「人間に行動をおこさせるもの、あるいはいくつかの選択肢のうちのひとつを選ぶよう促すもの」のこと。
○自分の望みをかなえるためには他人、そして自分自身を動機付けしなくてはならない。この問題を理解、解決するのが本書の目的。インセンティブを活用し、効率的に市場を利用する方法について考える。
○経済学の最も重要な考え方のひとつは「何かが足りないこと」にいかに対処するか。経済学の本来の目的は、日常の中で優れたものをより多く手に入れること。
○人間は誤った考え方にしがみついてしまいがち。世の中に対する見方、自分自身に対する見方ですら間違いだらけ。自分の中に「内なるエコノミスト」を持ち、良い経済学のレンズを通してものを見ると間違いに対処できる。
○「内なるエコノミスト」はひと目見ただけでは気付かないパターンに気付く。こうした隠れたパターンを発掘するのが本書の狙い。パターン認識はより良い判断をするための決め手となる。経済学を活用して世の中や自分に関係する出来事についての「パターン認識能力」を強化する。
第2章 「世界をうまく動かす方法―基本編」
○報酬としてカネをたくさん払ったから成果が上がるとは限らない。実験によると報酬のあるなしは、必ずしも作業の効率性と結びつかない。
○報酬と罰則を適用する際にはポイントがある。行動を選択する際に当人が自分の利害をどう認識しているのか―その見方を取り入れて初めてインセンティブは意味を持つ。このためインセンティブを組みあわせるだけではなく、影響を与えたい人たちの価値観や文化を知る必要がある。
○たとえばその社会では、人は基本的に「協力する」ものだと思われているか、それとも「裏切る」ものだと思われているか、といったことを知らないととインセンティブの設定がうまくいかない。
○追加的な努力で成果が著しく向上する作業については金銭的な報酬を提示するべき。事務作業や記憶すること、経理などの仕事では報酬やボーナスを与えることが作業能率向上に役立つだろう。
○内側からのやる気が弱いときにも金銭的報酬を提示すると効果的。
○報酬を受け取ることが社会的評価につながる仕事については、金銭的報酬を支払う。金銭的報酬によって自尊心がくすぐられ、ステイタスを感じるような仕事(俳優やヘッジファンドの運用担当者など)では効果的。
○金銭的な報酬が有効な時と、そうでない時を見極めることが大切である。
○状況が自分の力ではどうにもならないと思っている人に対しては金銭的報酬を提示するのは慎まなければならない。それはただ無力感を増幅させ、破壊的な行動や反抗に人を導いてしまう。
第3章 「世界をうまく動かす方法―応用編」
○当人が「主体的に関わっている」と感じられるかどうかは人間にとってとても大切。「自分が主体的に関わっていない」と感じた状態で、賞罰システムを作ってもうまくいかない。インセンティブを導入するなら敬意を持ってシステムをつくり、少なくとも「助言」と言う体裁をとるべき。
○主体性の感覚がいかに重要かはより良い世界をつくり、自分自身を向上させるための手がかりとなる。他人を管理しようとすると悲惨な結果を招きかねない。
○例:会議はなぜやるのか?
会議をすることで参加者に「自分は事情に精通し、決定に責任を負っており、主導権を握っている」という幻想を抱かせる効果がある。そのためには各人に発言の機会を与える必要がある。一見、時間の無駄に見えるが、それが会議に参加者をつなぎとめている。
○様々な種類の報酬と罰則をどう組み合わせ、混ぜ合わせるか。これは資本主義の持つ美点の一つ。資本主義は「人々の内なるやる気を引き出すシステム」。それには「自分が主体的に関わっている」という感覚を各人に持たせることも必要。
第4章 「芸術を真に楽しむために「足りないもの」は何か?」
○すぐれた経済学者は、現実の問題に取り組む際に「何が不足しているためにより良い結果が妨げられているか」と考える。
○社会が豊かになるにつれて重要なのはモノの不足ではなくなる。文明が高度に発達した現代社会で目立つ不測と言えば「関心」と「時間」の不足だ。
○「関心の不足」とはどういうことか。ある時点で「気にかけなくなってしまうこと」だ。たとえ音楽が好きでも、五時間も聞いていたら感覚が麻痺し、好きな曲でも頭痛の種になってしまう。
○文化を味わう上で、以下の二点を考えると良い。
1「何が不足しているのか」を自問してみる。カネか時間か関心が足りないのか。
2自分がそうありたいと願うほど、自分は文化に関心がないことを認めたほうがいい。「すべての文化を、それなりに楽しまなければいけない」と思い込んだら、結局は文化と名のつくものすべてを遠ざけることになる。
○美術館は「一般人を楽しませるために建てられたわけではない」ということを覚えておこう。美術館にとって大事な寄付者はお金持ちの有力者。有力者を喜ばせない美術館は、地盤が沈下していく。美術館のインセンティブは「一般人」ではなく「有力者」を喜ばせるということにあるのだ。
○有力者が求めるものは栄誉。だから美術館のレセプションは立派なのだ。
○美術にも経済学で言う「共有地の悲劇」がある。同じ絵を繰り返し目にしすぎたために、それらの絵に対する関心がなくなってしまうことが起きる。(例:モナリザ)
○音楽について。なぜ「新しい音楽」が生産されるのか。音楽の趣味には「自己愛」が関係している。音楽はアイデンティティーに関わるものであり、アイデンティティーの差異に関わるものである。
○文化の市場で買い手が求めているのは、芸術の新たな変革。つまり「新しく見えるもの、少なくとも仲間に新しいと見られるもの」を好む。
○ミシガン州の白人のティーンエージャーがヘビメタ好きに生まれついているわけではない。どんなジャンルの音楽を好むかは、自分が何者であり、何者でないのか、自分は世界のどこに属しているのかを再確認する役割を果たしている。同じミシガン州のティーンエージャーでも黒人ならラップに愛着を覚えるだろう。
○何かに反抗する、という欲求から逃れられる人はほとんどいない。反抗は「主体性を持つための方法」なのだ。音楽の買い手は若者なので、音楽市場は常に次なる「反抗の手段」を必死に探している。
○いい音楽と出会うには「自己愛」から抜け出す。ほんの少しでも「自己愛」から抜け出せれば、驚くほどの一流音楽が待っている。ただし一回聴いただけでは新たな愛は生まれないかもしれない。10回でも足りないかもしれない。要は信じることだ。この新しい音楽が、自分と自分の生活になんらかの意味を持つのだと心から思うのだ。
第5章「シグナルは語る―デート中も、拷問の時も」
○人は誰しも、自分のことを良く見せたい。人にどう見えるかは、各自が送る「シグナル」の総和であり、いかにその時々の状況にあった「シグナル」を送れたかで決まる。シグナリングとは一種の個人広告だ。
○多くのシグナルでは「メッセージは隠されている」ことを覚えておくこと。メッセージはあからさまではないし、またそうであってはいけない。興味を持ち、意識すればするほど分かるサインであり、ふつうは隠されていたり間接的であったりする。だからシグナルを送るのは難しい。自分の意図を伝えるためにシグナルを使うが、シグナルを使っているとは見られたくないからだ。
○経済学でいう「シグナリング」とは、「コストのかかる行動を選択することでメッセージを伝えること」を指す。バレンタインデーに妻に花を買うのは、シグナルを送っているのであって真冬に妻が花をほしがってると本気で思っているわけではない。
○シグナリングは「どれだけコストをかけたかがすべて」だ。立派なダイヤの指輪なら、花束よりも効き目があるだろう。口先だけで済むアドバイスは、どれほど貴重でも同じ効果は挙げられない。
○例:女性を口説く場合
相手に自分を「手に入りにくくする」という戦略がある。これはシグナリング理論でいう「分離均衡」を満足させることができない。言い換えれば「勝者と敗者を選別する」ことができない。自分を手に入れにくい存在にすると女性が振り向いてくれるというなら、世捨て人が大人気になるはず。それよりもまずは相手に気付いてもらわないと始まらない。
ジョークや歯の浮くようなお世辞は支持を得られない。博愛精神や寛大さ、スポーツマンシップ、「文化」や豊かであることをほのめかす口説き文句は支持を得た。
肝心なのは何を言うかではない。それより大事なのは、それらしい服を着て、それなりのふるまいをし、社会的な文脈を理解していることを示すこと。
○人間はなぜシグナリングを始終発しないのか。問題は、シグナリングが資源を無駄にするということだ。
○自分に有利になるようにシグナルを発するのが大切。シグナルの意味を深く理解できるようになることも大切である。
○例:子どもが親を評価する時
子どもは親を評価する時、どれだけ効率的に成長の過程を支えてくれたかではなく、どれだけ自分のために時間を割き、手間をかけてくれたかで判断する。家庭ほどシグナリングが重要な場所はない。家庭ではカネというインセンティブの役割は限定的であり、決定的な役割を果たすのはシグナルだ。
○例:嘘の見破り方
真実を語っているのだと他人が納得できるような態度を取るのは簡単なことではない。一貫性のある良くできたうそを見抜ける人はほとんどいない。
単純な嘘の手がかりに注目しなくてはいけない。ある人間のホンネを聞きたければ、「周りがどう思っているか」を聴けばいい。特定の考え方を信じている人は、他人も同意してくれるとか、同じような経験があると思いがちである。
人は他人について語るとき、往々にして自分のことを語っている。
もうひとつのホンネを聞きだす方法は「助言を求める」こと。他人にどうすべきかを助言する時、人はありのままの自分や願望、価値観を露にしやすい。
○カウンター・シグナリングというものものある。たとえばスパムメールに「読む価値があるかどうかはわかりません」とタイトルをつけると、却って読みたくなる。
○いいニュースがあるときは、隠しておいたほうがいいことがある。遅かれ早かれニュースは漏れる。いいニュースは利害関係のない第三者に報告してもらう。そうすると、それを耳にした友人は「彼は控えめ」「他にもいい話を隠しているかも」と感心してくれる。これもカウンター・シグナリング。
第六章 「自己欺瞞」という危険だが不可欠な技術」
○自分を欺くことーこれは幸せな結婚生活を送るための秘訣である。わかれない夫婦は、ばら色のメガネで過去を振り返る欺瞞の夫婦である。幸せな夫婦生活を送るには、いつ忘れるべきか、そもそもいつ気付かないでおくべきかを知っておく必要がある。
○夫婦に限らず、人間は己を良いものとして評価する。人はたいてい、自分が平均より賢く、平均より運転がうまく、平均より「いい人間」だと思っている。
○心理学では「抑鬱リアリズム」について書かれたものがある。欝状態のときの思考プロセスは往々にして非合理だが、社会での自分の立場に関して言えば正確である場合が多い。様々な分野で並みの実績しかあげていないと認め、多くの点で平均低下だと気付く可能性が高い。(つまり欝でない人はそれだけ自己評価が高い)
○事実はどうであれ、自分を高く評価している人のほうが、大きな仕事を成し遂げる。自己欺瞞は進化した防御システムなのかもしれない。このシステムがあるからこそ不安になったり、気が散ったり、目標を見失ったりしないのだから。人が人生をまっとうできるのは、他人に見られ、評価され、値踏みされ、非難されているという事実をたえず無視しているからだ。
○人生を巧く乗り切るコツは、ふだんは緩衝材として自分を欺き、何か問題にぶつかった時だけ、対象を選んで自己欺瞞をやめることだ。
○自己欺瞞の最たるものは主体性への欲求、あるいは主体性を感じていたいという欲求がある。実際はそうでもないのに、飛行機より自動車のほうが安全と思っている人が多いのはなぜか。自動車のハンドルは自分が握っている。よからぬ事態が起きても自分が対応できる。人は自分でコントロールしているという感覚がすきなのだ。
○人は、自分に関係の無いことに関しては合理的な選択ができる。わが身に降りかかることだと、不安や恐れが理性を追い出してしまう。
○チャレンジ精神はよいものだが、ときには避けることの出来ない悲惨な事態が起こりえること(それを幾分緩和させることはできること)を認めるべきだろう。
○実例:なぜ画家のバイヤーは贋作を見分けられないのか、それは多くの場合バイヤーの「プライド」と関わっている。
○本物かどうか見分ける自信がないことは自分には分かっている。しかし、本物に見えるし、本物を所有するのは気持ちのいいことだ。ならば買えばいい、という発想。
○プライドと真贋の問題は、芸術に限らず政治にも通じる。多くの「偽者」「イカサマ師」が公職についている理由も説明できる。
○例:「万人を大事にする政治」というスローガンを人々は好む。だが、それによって逆に多くの人々を大事にする政策を拒否することになることもある。アメリカでは保険に入っていない人が多いことは問題になるが、医学の基礎研究予算が少ないことはあまり問題にされない。
○人生への情熱を保ちつつ、決定的に重要な問題については、ぎりぎりのところで欺瞞的にならないように努力すべき。「わたしの原稿はうまくかけている」「自分にどんな服が似合うか分かっている」と言うかわりに「私は誰よりも他人のアドバイスに耳を傾けるのが得意だ」と言ってみよう。
第7章 - とにかくおいしく食べるきわめつけの極意
○家庭料理をうまく活用するコツは、外では食べられない料理、家出つくったほうが安上がりで済む料理、味がいい料理を見極めることにある。レストランの食事と家庭料理をどう組み合わせて活用するかを考えよう。
○まず最初にメニューの選び方について。おしゃれな高級レストランでは「メニューの中でいちばん注文したくないもの」「いちばん食欲をそそらないもの」を考え、それを注文しよう。
○なぜなら「なじみのメニュー、よく聞くメニュー」は家で食べても高級レストランで食べても「そこそこの味」になる。それでは意味がない。高級レストランのメニューは考え抜かれたもの。奇妙な名前の料理、聴いたことのない料理を選べば興味や味の幅を広げられる。
○家庭では新しい料理に挑戦しないほうがいい。まず一流レストランでで同じ料理を食べ、味を覚えてから作ったほうが効率的。
○レストランでは「このお店で最高の一皿は」と聞くのも良い方法だ。
○エスニック料理(外国料理)を楽しみたい場合、その地域で「店の数が多い国の料理」が一番おいしい。競争がプラスに働くから。
○倫理的問題はともかくとして、貧富の格差が激しい国ではおいしい料理を食べやすい。富裕層に向けて作られる料理を、安い労働力を使って作れる地域だから。
○逆に家では「貧富の格差の少ない、平等な国の料理」を覚えると良い。そういう国の料理屋はおいしくならないから。
○店の「賃料」にも注目しなければならない。各地区の賃料相場を知っていると、良いレストランを見つけるのに役立つ。
○安くてうまい店を見つけるなら「近くに高い賃料を払う顧客のいる、賃料の安い地域」を探すのが良い。
○食事をするなら郊外の小さなモールのほうが実はおいしいものが食べられる可能性が高い。
○賃料が安いレストランはリスクをとらずに冒険ができる。料理がヒットしなくても高い賃料が残るわけではない。
○世界中のどこへいっても屋台や露店の料理がおいしい理由はここにある。
○家ではどんな料理を食べるべきか。ヘルシーな料理を心がけるべき。体に悪いものは外で食べたほうがいい。外食のほうが概して体に悪いものを出すから。
○レシピどおりにしようと思わないこと。レシピ本を出版しているコックのインセンティブを考えよう。「自分の腕を見せる、人々の印象に残るシェフ」になるために出版された本のレシピは当然難しくなる。レシピの作成者の狙いを見定め、活用すること。
第9章「クリスマス・プレゼントは世界を救うだろうか?」
○社会のためになることをしたいと思ったとき、我々は真の動機を見極め、社会を良くするための行動と、自己満足にすぎない行動を峻別しなければならない。
○乞食に施しを与える事は効果的ではない。乞食に施しを与えると、彼らに「もっと恵んでももらおうと」いう気を起こさせる。そのために彼らは「縄張りを死守するために金を使う」「同情を引くためにわざと体を傷つける」「仕事につかない」といった努力をしてしまう。
○施しを与えるなら、困っていても乞食のような努力はしていない人に与えるのが効果的だ。つまり施しなど期待していない、貧しい人に施したほうがよい。
○慈善活動に寄付する場合に効果的な方法:これと思う活動や団体が見つかったら、とことん付き合う。また、自分の名前(寄付者氏名)を他の団体に教えないように頼む。手紙やダイレクトメールを送付しなくて良いと頼む。こうした行動で団体の財政状況を良くできる。
○もうひとつの方法は、「社会性の高いもの」「多くの人がその時に注目しているもの」に寄付すること。多くの人が注目し、関心を持っている活動、いわば社会の「強化テーマ」には人やお金が集まりやすくなり、効果性が上がる。ただし、そうした「強化テーマ」には自分の寄付したい金額の一部を寄付すればよい。
○つまり「自分の気に入ったテーマの慈善活動」と「社会で「強化テーマ」になっている慈善活動」の両方に乗っかるのが最も効果的であるといえるだろう。
○人間が寄付をする目的は、他人を助けることではなく、その活動に帰属することかもしれない。慈善事業では影響力のある大きな組織を支援したいと考える人は少なくない。成功している人や組織と同じ活動に参加しているという満足感のため、あるいは活動全体の崇高さや、活動で築かれる人間関係のために寄付をする。
○多くの慈善活動は、純粋な意味で人助けになっていないケースが多い。
○チップを渡すことは、慈善活動としては効率性が低い。チップを受け取るのは既に職のある人たちであり、チップの制度があるのは比較的豊かな国の人が多い。彼らを優先的に救わなくてはいけない理由はないだろう。
○ジョエル・ウォルドフォーゲルの調査によればプレゼントを贈られた人は、もらったプレゼントの価値を実際の価格より低く見積もる傾向がある。
○したがって、贈る側に利己的な満足がなければプレゼントの純価値は生まれない。つまりプレゼントは「与える喜び」があって初めて価値が生まれる。
○モノを所有するより、何かを経験したほうが長く記憶に残るという調査結果がある。CDを贈るよりもコンサートチケットのほうが、車を買うための金を渡すより海外旅行に連れて行ったほうが、贈り物としての効果性は高いだろう。
○慈善事業よりも優れた方法としてマイクロ・クレジットがある。マイクロ・クレジットとは、たいてい100ドル以下の小額を、世界の貧困層に融資する制度だ。世界中で何百万人もの人が小規模な事業を立ち上げたり、医療費を払ったりするために利用している。
○マイクロ・クレジットの利点としては以下の点があげられる。
○マイクロ・クレジットによって小規模な企業が興れば地域経済は潤う。起業した人は持続的なスキルを獲得する。返済義務があるので規律が生まれ、仕事を続ける習慣がつく。また(踏み倒しがなければ)原資がなくならいので、継続的に融資できる。寄付によって利益を生む事業が始まり、何年にもわたって支援できる可能性がある。
○また、途上国の場合マイクロ・クレジットで資金を融資したほうが効率的に資金を事業に活用できる(親族に借りると、親族が後で分け前を期待し、資金が分散してしまう)
○現在では、遠くまで行かなくても参加できる「kiva」(インターネット上で途上国の人々に小額融資できるサイト)などの新たなマイクロ・クレジット制度がある。
第10章「内なるエコノミストとわれら文明の未来」
○市場を円滑に機能させるには、人間の価値観が必要である。
○西欧世界が成功してきたのは、自己批判や個人の権利、科学、政府は国民のためにあるのであって、その逆ではないといった考え方を大切にしてきたからだ。
○市場もまた文化的な基礎を必要としている。「内なるエコノミスト」は、社会秩序を支えるのに役立つ。それは自由な社会を維持し、拡大させるのだ。
(終)
原著「Supercapitalism」
http://www.amazon.co.jp/Supercapitalism-Robert-B-Reich/dp/1848310072/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1214879274&sr=8-2
日本語版「暴走する資本主義」
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4492443517/250-0367643-3261815?SubscriptionId=1CR2KCSDNRVJY76AMX82
序章 パラドックス
○資本主義と民主主義は別のシステムだ(もちろん資本主義をやるためには民主主義のほうがいい)
○民主主義とは「社会全体の利益に繋がる仕組みやルールを市井の人が協力して決めていくシステム」のことだ
○1970年代以前の資本主義は今の資本主義とは大分違っていた(第一章)
○資本主義は1970年代以降変化し、企業の競争力が増大し効率化・グローバル化が進行した超資本主義になった(第二章)
○その過程で我々は「消費者」「投資家」としての力を大きく伸ばしてきたけど、「市民」として公共のルールやトレードオフを決める力をかなり奪われてる(第三章)
○つまり資本主義が超資本主義に変化していく中で、民主主義の力が弱まってしまった(第四章)
○昔に比べて政治家が極端にあくどくなってるとか、企業家達が極端に強欲になってるというわけではない。彼らの周りの環境が変わってることが大きい(第四章)
○企業に社会的責任を求めるだけでは問題は解決しない(第五章)
○「企業」という実体のない契約書の束ではなく、生身の存在である「我々自身」が主体的に物事を決めるべき。「消費者」「投資家」としての価値観だけではなく、「市民」としての価値観で社会や経済のルールを決めていかなきゃいけない(第六章)
○そのためにうつことができる手はは色々あるけど、それはみんなが思ってるものと大分違う。(第六章)
第一章 「黄金時代」のようなもの
○1970年代まで、アメリカは「民主的資本主義」と呼ぶべき社会だった。
○大企業が大量生産でモノを大量に売り、生産性を飛躍的に向上させた時代だった。
○同じ産業同士で陰に日向に協調したので競争は激化せず、価格を下げなくてもよくて収益が高かった。
○労働者はひとつの組合に組織されていたので、給料も福利厚生も「ひとまとめ」に決められていた。
○企業にとっても「ひとまとめ」で交渉できるのはラクだったので、労使間は結構うまくいっていた。
○主要サービスの価格は政府に規制されていて、競争は激化せず、価格を下げなくても収益が上がった。
○大企業の経営者には「企業に収益をもたらす」だけではなく、社会的責任を担う「企業ステーツマン」としての役割も求められた。
○このシステムの長所は数千万の安定した雇用と福利厚生が確保されていること、利益が広範に分配されること、それが支出に回って経済が安定すること。
○中間層・中流階級が増加した結果、政治的にも安定した。この時代は「黄金時代」であるかのように思える。
○しかし、それは見せ掛けに過ぎない。このシステムには短所もたくさんあった。
○まず競争を引き起こさず効率性が犠牲にされ、イノベーションもあまり起きないこと。
○それに、このシステムは機会均等という点でも問題があった。黒人、女性、貧困層などは不平等な扱いを受けており、システムの恩恵にあずかれなかった。
○日本やヨーロッパでもアメリカとは違うものの、似たシステムの社会が実現していた。
第二章 「超資本主義」への道
○冷戦時の軍事開発は様々な新技術を生み出した。その技術が民間で使用されるようになった時、資本主義は超資本主義へと変化し始めた。
○コンテナ、貨物船、光ファイバー、人工衛星、コンピューターは物資の輸送コスト、通信コストなどを大幅に引き下げ、他業種への参入障壁を押し下げた。
○これによって各業種に新規参入企業が増え、競争が一挙に激化した。
○金融規制緩和によって、投資信託やファンドが大規模化し、企業は株主に高収益を上げるように圧力を加えられるようになった。
○「民主的資本主義」は終わりを迎え、メインプレーヤーだった大企業、労組、政府などは力を失った。
○権力は消費者と投資家が力を握る「超資本主義」の時代がやってきた。
第三章 我々の中にある二面性
○私たち個人個人はより「お買い得な品物」を求める消費者であり、よりリターンの高い投資をしようとする投資家である。
○ウォルマートのような大手スーパーは、「消費者としての我々」の欲求を統合し、巨大なパワーを持つ企業となった。
○ウォルマートは「お買い得の品物を求める私たち」をバックにして値引きを要求し、コストを圧縮する。
○ウォール街や投資ファンドは「投資家としての我々」の欲求を統合し、巨大なパワーを持つようになった。
○年金基金や株式投資で「より高いリターンを求める私たち」をバックにして、企業に高収益を上げろ、コストを削減しろと要求する。
○企業は激しい競争に加えて、こうした「消費者・投資家」の圧力を常に受けている。
○結果として企業はそれまで担っていた福利厚生・雇用・賃金などを切り詰めていくことになった。
○「市民」としての私たちは「ひとりひとりの福利厚生・雇用は大事」と思うが、「消費者・投資家」としての私達はそれと逆のことを企業にするよう圧力をかける。
○だからといってひとりひとりが「市民的価値観と相反する消費・投資から手を引く」というのは不可能だろう。
○それよりも「市民」として持っている価値観を守るための社会的ルール・規則を作っていくほうがよい。
○労働法、有価証券取引税、最低賃金保証、健康保険など様々なルール・規則があり得る。
○「消費者・投資家」としての幸せだけではなく「市民」としての幸せも実現できる社会は、こうしたルールをどう決めるかによって違ってくる。
第四章 飲み込まれる民主主義
○「消費者・投資家」としての我々の発言権や権益が企業やファンドによって拡大していったことに比べると、「市民」としての私達の声はどんどん縮小してる。
○これは超資本主義の下で企業が合理的な行動をした結果起きていること。企業は競争に優位に立つために、お金を集めてロビイストに払って政治に働きかける。
○超資本主義の下で競争が激しくなり、株主・顧客の要求が高まれば高まるほど、企業は政治へのロビー活動にお金をかけるようになり、その金額は拡大の一途。給料が高いので議員経験者・元政府職員などはこぞってロビイストになり、効果的な働きをする。
○政策決定には、こうした企業・産業団体の影響が色濃く反映されることになる。「専門家」と呼ばれる人たちも、こうした企業・産業団体の影響の下で政策提言を行う場合が多い。メディアも顧客企業寄りの広報専門家の言うことをそのまま流したりする。
○ロビー活動の世界も競争が激化したため、参入するのにお金がかかるようになってしまった。政治的争いに参加するにはカネが必要であり、NGOだとか市民団体ごときではとてもではないが、企業や産業団体のようなカネをかけたロビー活動に太刀打ちできない。
○同じ理屈で労働組合の政治的影響力も低下している。議員達を動かすロビー活動にカネがかかるようになった結果、労働組合は労働問題に直接関係する問題以外に影響力を保持できなくなってしまった。
○無論、ある問題については大規模に報道がなされ「市民の怒り」が火を噴き、大きな世論が生れる、ということがある。しかし、そうした場合も実は「パ フォーマンス」的な解決劇が行われて、実質的には企業の利益に反さないような調整がしっかり行われるのが常。公聴会で議員が社会的な問題を起こした企業を 激しい言葉で叱責する様子とかがテレビで流れたりするけど、その後に議会で何が決まったかちゃんとチェックしてみると実はなんにもしてない、なんてことが よくある。
○そのため「市民」としての私たちが「社会的平等」だとか「公平さ」とかを求めようとしても、政治を動かすのはかなり難しくなってるのが現状。
○「消費者・投資家」としての私たちには、ちゃんとした代表がいる(大企業・ファンド)んだけど、「市民」としての私達の代表は実質的にいなくなってし まってる。議員はいるけど、ロビー活動資金の高騰・ロビイスト達の活動の活発化で、彼らは「市民」としての私たちを代表する存在ではなくなっている。
○これは別に現状を正当化したり非難したりしているわけではなく「現状を説明」しているだけ。私達の民主主義は、超資本主義に飲み込まれて現状ではこうしたものになってしまっている。同じ傾向は他の国でも見られる。
○私たち自身の選択によって現状の「民主主義」のあり方も変えていくことができるのも事実。
第五章 民主主義とCSR
○CSR(企業の社会的責任)は結構なことだけど、そもそもな部分でおかしい。
○企業は「責任」というけれど「企業の社会的責任」を定義した法律や規則に基づいたもので動いているわけではない。
○投資家や消費者が「社会的責任を果たさない企業」にカネを出さなくなるだろ、というけれど現実にはそうした行動は一時的なものに終わることが多い。
○第四章で述べたように企業はCSRといいつつも、「公共の利益」よりも、自分達が競争で優位に立つことができる法律・規則・規制をロビー活動で実現させている。
○CSRの考え方は、こうした企業の矛盾した行動から目をそらさせてしまう。大切なのは我々が決めることのできないCSRの規定ではなく、我々の決めることができるはずの「公共の利益」に基づいた法律・規則が制定されることだ。
○CSRは、超資本主義の下で我々の「民主主義」が第四章のような形に変質していることから目を逸らさせてしまう。
○それにCSRは企業が「道徳的に振舞う主体」として「個人」と同じものであるかのように認識させる点でもよろしくない。「企業」は「個人」とはそもそも 違う。「企業」が「責任を果たす」という表現は、企業があたかも「個人」であるかのように思わせるが、それは見せ掛けにすぎない。
第六章 超資本主義への処方箋
○斯様な現状下で、どのように「民主主義」をより良い形に変化させることができるか、政策提言を行いたい。
○政策決定のシステムを改めるためには色々な方法がある。たとえば「要職の選挙には公的資金を活用する」「放送局が選挙広告を無料で流す(アメリカは候補 者のテレビCMに莫大なカネをかけるので)」「ロビイストが顧客企業から献金を集めるのを禁止する」「企業・経営幹部から議員への寄贈・接待の禁止」「議 員経験者が退任後5年間ロビー活動をするのを禁止」「ロビイストの活動収支公開」「公聴会で発言する専門家は利害関係者との金銭関係を公開」などなど。こ うした法律を、きちんと運用できるだけの監視も必要。
○ただし、こうした改革を実際に行う当事者が「ロビイストから金を貰ってる議員」だから、実際にやるのはかなり大変。
○とにかく民主主義のあらゆるところに「超資本主義」が侵入しているのが現状なので、「どこまで侵入できるか」をもっときちんと決めてルールにしよう。
○企業だって際限なくカネを政治家に渡したいわけではないから、こうしたルール設定はある程度歓迎してくれる。企業間の献金競争・ロビー活動競争の「休戦協定」を作らせるのが大事。
○あと、改革を行うためには「現行制度のどこが問題か」をみんながきちんと理解することができることが必要。
○問題が起きた時に現行の法律・規制がどうなっているのかを考えられるようにしよう。企業の失敗をやたらと攻撃する政治家・運動家や、「我々は社会的責任 を果たしてる」と盛んにアピールする企業や、ロビイストの理屈なんかを安易に信じてはいけない。メディアも、きちんと「何が問題点か」を明確に知らせるべ き。
○そして特に強調すべきこととして「企業は人ではない」ということを認識しよう。企業というのは法的擬制であり、契約書の束以外の何物でもない。企業は、 「契約書の束」異常の発言の自由、法の適正手続き、政治的な権利を持つべきではない。そういったものを持つのは「生身の人間」である。
○企業を「擬人化」し、あたかも一個の「人格」であるかのように捉える考え方は一般的に見られる。その結果、間違った義務・権利が企業に求められてしまう。
○たとえば法人税。法人税は企業をひとつの「個人」であるかのように見て税をとっている。そのせいで企業側も「民主主義のプロセスに企業は参加できる」と考えてしまう。しかし、税金を払ってるのは実際は「企業」ではなく消費者や株主や従業員ではないか。
○というわけで、法人税は非効率的で公正なものではないのでやめたほうがいい。「生身の人間」から効率的・公正に税金を取る方法があるはず。
○たとえば、法人税を廃止し、企業が株主を代表して獲得した収益全体についてそれぞれ株主が個人所得として税金を払う、といった方法がありえる。
○これによって全ての「法人所得」は「個人所得」として扱われる。
○また、企業が不正をした時に「企業体が刑事責任を問われる」というのもおかしい。企業があたかも「人格」を持って悪事を働いたかのようにみなすことになるわけで、実際はそんなことはない。
○アメリカに本社を構える企業が海外に労働力を求めたり、収益を他国に預けることを批判したり罰したりするのも意味がない。それも企業をあたかも「人格」 を持った存在であるかのようにみなしている。企業は人格ではないのだから「愛国心」とか「愛国的行動」を求めるべきではない。
○軍用契約や公的責任などを「自国(アメリカ)企業だけに限定する」の意味がない。
○自国の企業だからといって研究に補助金を出すことも筋ガット折らない。それが米国の競争力向上に結びつくことはない。実際、アメリカの各企業はインドや他の国に研究開発費を振り向け、それで利益を得ているのだ。
○政府の目標は「米国人」の競争力を強化することであり、「米国企業」の競争力を伸ばすことではない。企業は競争力を伸ばすためにグローバル化戦略を進めている。政府は、その中で競争力を維持できる「米国人」をどうやって増やすか考えよう。
○企業は「人格」ではないのだから訴訟の権利を持たせるべきではない。
○最後に大事な点として「人間」だけが民主的な意思決定プロセスに参加することを許されるべき。
○企業の政治活動と個人個人の「市民」の政治活動が「使えるカネの量」の差で不均衡が起きているのが現状である。こうした現状を改善しないといけない。
○たとえば企業は株主にロビー活動や政治的活動の説明を行い、株主の同意を求めないといけないようにすることができる。
○また、年間1000ドルの税額減免を納税者ひとりひとりに与え、その控除枠を使って自分の選ぶ政治活動団体に寄付することができるシステムなどを作っても良い。
(おわり)
アニメ「コードギアスR2」最終回
「泣いた赤鬼」ですか。
テーマ的にはわりとまっとうだった。「人間ってのはバカで痛い目にあって反省しないと治らん動物なので、たまにバカが調子こいて戦争とかやって犠牲者出したり、独裁者がムチャクチャやったりすることもあるさね、そういう経験を積んでは反省してってのを繰り返さないとダメなんだよイヤだけど。それが人の運命なんだ けど、だからって運命に流されてばっかりじゃダメでちゃんと抗わないと進歩もないよね」という話。たいそう現実的なモノの見方。「ニュータイプ(あるいは人類補完計画)でみんなわかりあえてエイエンの世界で万歳三唱ってわけにはいかないよね」ということを明確に宣言した上で、でもだからって自分の意志ばかり通そうとしていると結局は戦争とか独裁とかになって大変、結局は話 し合いが大切、という現実的なところまで進んだ感じ。
しかし、そもそもガンダムの「戦争とニュータイプ」話やエヴァの「戦いと補完計画」というテーマが「話し合いが大事だとか言ってグダグダやってる現実」の閉塞感を打ち破りたいということからスタートしたのではなかったか。そう考えると進んだん だか元に戻ったんだか微妙な所である。
「社会の閉塞、他者との軋轢、自己の葛藤などなど一切合財が解消される魔法みたいな方法・世界」があればいいのに、と言ったのがガンダム、「そんな方法・世界なんて存在しないよ」ということをあらためて確認したのがエヴァ劇 場版、「そうか、存在しないんだ」ということに心底ガッカリしたのがAIR、「だったら俺が作ってやる!」と言い出したのがデスノート、「熱血でどうにかなるぜ!」と吼えたのがグレンラガン、「面倒くさいし大変だけど地道にやろうか」というところに至ったのが今回のコードギアスといった雑把な見取り図が描けるか。
わかりやすい葛藤や対立、カタルシスのある物語、ドラマやキャラ萌えがないといけないアニメの世界で表現できる「リアル・現実」という のは結局ここら辺が限界かと思った最終回だった。ラストのとってつけたようなカレンのナレーションで語られた内容(貧困や国家間の話し合い・交渉)が、この作品が「表現しようにも表現できなかった部分」を端的に示している。そして、これから アニメや漫画が「リアル」を語ろうとするならば、実は「戦争」ではなくて、そういう部分をこそ語らないといけなくなると思うのだが、たぶん無理だろう。「国際外交交渉」とか「開発経済」とか「社会制度設計」とかをアニメや漫画でガチンコで描いても面白くならなさそう。でも、現代の「戦争」って、もうガンダムとかエヴァとかルルーシュで描かれている分かりやすい「戦争」とは違うものであり、上述したような要素を織り込んでいかずに「戦争」を描くのはアンリアルになってきている。創作者にとっても大変難儀な時代になってきたものだ。
アニメ「マクロスF」最終回
文句言ってる人はマクロスシリーズは「最後は乙女の純情と歌で全部解決!」が基本であることを忘れているのではないか。、一体これ以上マクロスに何を望むのか、何を期待していたのか。マジメすぎるテーマ性がない、適度なエンタメ性こそがマクロスのいいところではないのか。
最後までアクションシーン大サービス、ピンチと攻勢を緩急つけて繰り返して30分間テンションを保ち、両ヒロインの歌も盛り上がりと大 変良い仕事、何も言うことはない最終回。2000年代後半のテレビアニメは監督・菊池康仁の時代として語られる ことになるやもしれん、と感じさせるほどの充実した仕事。後は自らのオリジナル作品でどれくらいの力量を見せてくれるか。
強いて難を挙げるとすれば「新しさの欠如」が最後まで払拭されなかったことだが、これも別に批判されるようなことではない。どう 見てもこのシリーズは「新しいもの」を目指すために企図されたものではなく、「これまでのマクロスシリーズの総決算&新世代マクロスの足場造り」として作 られたもの。その企画意図は完璧に達成されていた。敢えて言えばアルト君に余計な設定(女形)をつけなくてもよかっ たんじゃないかという気がするくらいか。あとはクランだけ可哀想じゃないかとか。
三角関係が解決してないという向きもあろうが解決してシェリルかランカが泣きを見るところを見たいとでも言うのか。「三角関係をきちんと解決させるのがいかに大変か」は「君が望む永遠」とか「スクールデイズ」とかでもう良く分かったろうに。劇場版で二人ともアルトを見捨てて旅立ってくれることを期待したい。
第一話と最終回だけなら100点満点あげて良い出来。シリーズ全体でいうと、色々とアラはあるが、これまでのサテライト作品と比較すれば格段の水準の高さなので批判するようなものでもなし。
個人的にはこの作品は第17話のオープニングが全て。「キラッ!」が全て。この作品で提出された要素でこれから生き残るのはCGと「キラッ!」とひょっとしたらクランというところではないか。