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世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に
やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる

私に始めてひとりのひとが与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを聴いていた
私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ
私はいつも世界のものだから

空に樹にひとに
私は自ら投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるため

……私はひとを呼ぶ
すると世界がふり向く
そして私がいなくなる

- 谷川俊太郎「62」


「魔法少女まどか☆マギカ」は「システム」「ルール」という極めて現代的な視点から「セカイの秘密」を平易に説く、完成度の高い作品となった。幾つかの視点から本作の価値について書きとどめておきたい。

最終回の「オチの付け方」に左程の「新しさ」はない。「主人公の自己犠牲によって全ての因果が解放される」というキリスト教的な「自己犠牲-救済」のオチに既視感をおぼえた人は少なくないだろう。「主人公が因果を超えた超-存在となる」というオチはアニメでもお馴染みのオチの付け方である。

しかし、凡庸な作品の場合「主人公が因果を超えた超ー存在となり全ての因果を解放する」という「大オチ」は視聴者にとって「強引」に感じられるケースが多かった。当然である。そもそも「因果を超えた超-存在になる」などということ自体がむちゃくちゃな話なのだから。しかも「そういうむちゃくちゃな話が生じえる」ということが事前に説明されないケースも多い。

押井守の映画「攻殻機動隊」は、こうした過去作品が繰り返してきた「強引さ」への反省が見られる。「ネットワーク・システム」という視点から「作品世界のシステム・ルール」を理詰めで説明し、その上で「主人公が因果を超えた超-存在となる」という「大オチ」を鮮やかに描いてみせた。「因果を超えた存在になる」というそもそもが無茶なオチを「理詰めで納得させる」ことにチャレンジして見せたのだ。

「魔法少女まどか☆マギカ」はこの映画「攻殻」の系譜に連なる。スタッフ達は最初から「まどかが因果を超えた存在になって全てを解放するというオチ」に向けて物語を周到に構築している。ドラマを通じ、またQBの説明を通じ、視聴者は「感情・感覚」「理屈」の両面から「セカイの秘密」を叩き込まれる。全てが「最終回の大オチ」のために丁寧に準備されている。その周到さ、「オチに至るまでの説明のクリアさ」は過去作品と比べても極めて高水準。本作の第一の価値は「既存の作り方を高い水準と完成度で達成している」点にある。

繰り返すがアニメだけではなくSF作品やブンガクなどを見れば、こうした作品の作り方自体はそれほど新しいものではない(たとえば80~90年代の日本文学では、こうしたタイプの作品が数多く見られたし、SFではそれ以前から数多く見られる)。ただし、テレビアニメの世界で、しかも「魔法少女モノ」というフォーマットでこれだけの周到な構築と完成度を達成した作品はそうはないだろう。

次に本作の価値として挙げたいのは、作品世界の「設定」の現代性だ。「攻殻」が「ネットワーク」という視点から作品世界を構築したの対し、「まどか☆マギカ」は「宇宙のエネルギー供給システム」という視点から作品世界を構築した。評価したいのは、この視点の持つ「生々しさ」だ。「人間の感情をエネルギー源として回収・消費する」という発想には「科学的リアリティ」は全くない。しかし、その設定に我々は「感覚的なリアリティ(生々しさ)」を感じることができる。

「生々しさ」を感じる背景には、我々の社会が「心」や「関係性」を本格的に「消費の対象」としはじめていることがあるのではないか(この点については具体的根拠をあげるの大変なので、とりあえず指摘するだけにとどめる。卑近な例で言えばサービス業における「感情労働の強制」の問題や、「家族」関係や「恋愛」関係の多様化、企業による「洗脳」的な社員管理の問題などが挙げられる。)

また「制度やシステムが人を動かす」「システムを改善することによって不幸を最小化する」という発想自体も優れて現代的といえるだろう。正直「社会制度設計」の問題をアニメーションで表現するのは難しいだろう、と思っていたのだが「まどか☆マギカ」はそれを「寓話」的に見せることによってうまくクリアしてみせた。

「システム」が改変されたとしても全てが解決するわけではなく、そのシステムの中でやはり齟齬や葛藤や闘争は続く、という冷静な視点も現代的である。それでも問題のあるシステムは改善されるべきだし、それによって世界が「幾分マシな場所になる」ことには大きな意味がある。そうやって人類は進歩してきたのだ、というメッセージは熱く、重く、現代だからこそ響く内容ではないだろうか。本作の第二の価値はそこにある。

付け加えるなら、本作は「映像的説得力」もとても高い作品だった。「少女の希望と絶望の相転移でエネルギーを」などというトンデモ理論をなんとなく「アリ」に思わせてしまうには映像と音楽と声優の演技の強力な力が必要。新房総監督とシャフトはそのミッションを見事に果たしたといえる。劇団イヌカレーによる魔法世界のデザインの果たした功績も大きい。

他にも本作の価値を幾つか挙げておく。

「脚本を最初に作りこみ「結末」から計算して映像や意匠を作っていく」という制作手法。当たり前と思われがちだが、意外と日本アニメでは非主流だった。今後、こういう作り方が主流となることを強く望みたい。

「オリジナルアニメを商売として成立させる」ための各種の取り組み。有名クリエーターの意外な組み合わせで話題を確保する、テレビ版と同時進行する漫画版やスピンオフ漫画で稼ぐ、といった手法は、これまでのメディアミックス戦略をより先鋭化させ、計画的に行われている。この周到さは他スタジオ・製作会社も参考に出来ることが多いのではないか(もっとも原作が良くなければ幾ら「仕掛け」だけが優れていても無駄なのだが)。

「劇団イヌカレー」「虚淵玄」などアニメ業界とは異種の才能を積極的に取り入れ、見事に成功させた点も本作の価値だろう。ガイナックスも中島かずきという才能を得て「グレンラガン」を成功させている。こうしたクロスオーバーが今後も活発になることを望みたい。

2010年代アニメの豊穣を予感させる素晴らしい作品を作ってくださったシャフト他スタッフの皆さんに惜しみない拍手を。素晴らしい仕事。傑作をありがとうございます。
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