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図書館でSFマガジン1月号を借りてきたので宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読みまして。いい加減にイライラしてきたので適当に愚痴を。

1月号はよしながふみ論なんだけど、山形浩生の「日出処の皇子」論を土台に吉田秋生→よしながふみと語っていく形で、まあ相変わらず穏当だなあとは思うわけです。思うのは稲葉振一郎と宮台真司の仕事ももっと思い切り引用して論じればいいのではってこと。最初のほうでちょこちょこと引用したあと、あんまり出してないのはなんなのかしら。基本的にこの連載「宮台・稲葉を読んだ小知恵の働く院生レベルが漫画・ドラマ論に仕立て直してみましたけどどうでしょう」的コンセプトだと思うのだが、本人的には違うのだろうか。それはそれで意義のある仕事だとは思うのですよ。誰かがやったほうがいいだろうと思うのです。ほらなんか「文化的雪かき」とかいい言葉あったし。

でも連載が始まって以来未だに宮台・稲葉から一歩も外に出てないので、さすがにイライラしてきたわけで。結局、宮台・稲葉という国内思想(社会学)を漫画・ドラマの評論に輸入してる輸入業者にしかなってないけど、それでいいの?「小知恵の働く院生レベル」のことをいったいいつまでやる気なのか。さっさとお前のオリジナルの話聞かせろと。てか「オリジナルの話を結局しないでドロンするつもりなんじゃないか」と。どうもこのあたりの年齢の評論家はみんなそうだし。「決断主義」批判した手前、はっきりしたことを自分でいうのはどうも…みたいなことを言ってお茶を濁すパターンが多い。

大雑把な言い方になりますが「小さな成熟をはたした個人の緩やかな連帯」みたいなモデルが日本で実現する可能性は極めて低いということを、ネタ元の宮台が言ってるのを知らんぷりして「小さな成熟」と言っても説得力ないだろうという話。1月のよしながふみ礼賛とかもそうなんだけど、宮台の「次」じゃなくて、宮台の「手前」で止まってて、それで終わってないかという気がしてならんのですが本人的にはそうじゃないのだろうか。

ヨーロッパ的伝統やアメリカ的宗教心みたいな連帯の基盤がない上に、郊外化の進行&ネオリベ規制緩和による地域共同体の解体が進み、その上田吾作オヤジ&爺が各所でのさばってウンザリな日本社会では「中間領域」の形成の共通前提なんて存在しない。「仕方ないから天皇制でも核にする」だとか「賢いエリートがアーキテクトと組んで愚民どもを適当に幸せにするシステムでも作ればいい」と宮台は言っているわけですが、そこら辺は無視して「流動性の高いコミュニティの中で小さな成熟を」みたいなこと言うのはリアルなの?輸入業者やるのはいいけど、自分の都合の悪いところは輸入しないで済ますのはどうなの?

稲葉振一郎にしてもそうした状況下で社会システムを具体的にどうすればいいか、みたいな話はあんまりしてない。今、経済学にせよ社会学にせよ、みんなそこのところをどうやって具体的に作っていけばいいものか、思考停止型左翼思想にいまさら舞い戻るわけにもいかないし困ったね、という話をしてるのではないのかと思うのだが。そこにきちんと突っ込まないのかと。そこに突っ込まない限り、ただの「思想ウォッチャーによるマッピング」以上のものにはならないけど、それでいいの?いいのか。

セカイ系批判も決断主義批判もいいんだけど、正直それは「年寄りはよく分かってないみたいだけど若い連中はもうとっくの昔に分かってる」こと。連載当初は「年寄りどもを啓蒙してくれるわ!」と威勢良く言ってるだけで読んでるほうも「言うたれ言うたれ!」ってな感じで喜べたのだが、いつまで同じことをやってるのかと。焦らしてないで新しいこと言うつもりなら勿体ぶらずに書けと。評論家の仕事ってそこだろう。それとも、この連載は「マッピング作業」で終わりなんだろうか。まあ、それはそれで意義のある仕事ではあるが。

2月はセクシュアリティで東批判?そんなこと更科修一郎なり海猫沢めろんなりがちゃんと仕事してる。東と雑誌で「論争」して盛り上がる、なんて古典芸能やるつもりでもなかろうに。

繰り返すがこのまま先行世代の思想から一歩も外に出ないでお茶を濁すのなら、ただの「国内思想の輸入・紹介業者」で終わり。小知恵の働く人間が国内思想うまく使って(他人のふんどし使って)何するかと思えばセカイ系で精神の平衡保ってるオタクを捕まえてタコ殴りとは……見ていて爽やかなものではない。タコ殴りにされるなら、タコ殴りにされるだけの立派な相手にやられたいとオタクも思っている。他人のふんどし借りて相撲取っているような人間にタコ殴りにされたらオタクだって成仏できない。

「それだけいうなら、お前が小知恵の働く院生レベル以上のことをやってみろ」という話で、管理人も全然できないので人のこと言えた義理ではない。ただ、「もうちょっとなんとかならんのか」的なことをどうしても思ってしまう連載なのである。

追記:いちおう書いておくと、上述の文章は宇野氏の仕事や主張内容を否定する意図で書いてるわけではなく、無責任に外野から「もっとやれ」と野次ってるだけです。



更に追記:

2月号と3月号も読んだのだが2月号は更科修一郎が昔、ホームページにのせてたギャルゲのセクシュアリティ論の焼き直しとしか思えない。さらりと最後に「こうした論議は更科修一郎を除いてはこれまであまりなされてこなかった」みたいに書くのはどうなのろうか。更科で十分だろう。もっと更科リスペクトしろ。

3月号はこの連載の中でいちばんよい仕事だった。宮台批判という意味ではある程度納得のいくものになっていた。ただ、その後の主張は結局のところ山形浩生と稲葉振一郎をそのまま引用しただけで、自分の言葉で何かを語っている印象はない。結局マッピングで終わり。



また追記:

6月号の最終回を読んだが、最後の最後になってようやく「制度設計」の問題に行き着いている。何を今更感が漂うが最後の最後で「現在」に追いついたということで良いのではないか。しかし制度設計の話は「政治と文学」でいうと「政治」の話だからボクはもうしませんだそうで。単にまだ輸入に値する(他人の)ネタがないだけ、自分は勉強してないから具体的な未来派提言はできないだけと言えばいいのに、どうしてこういう苦しい言い訳を選択するのか理解に苦しむ。「輸入に値するネタがまだない」と判断できるセンスはマッピング業者・輸入業者としては悪くないのだが。

素直に「ごめん、まだこの分野で目立った仕事はなくて俺もよくわかんないんだ!頭のイイ人たちが考えてくれるから待ってて!」と言えばいいだけの話じゃないのか。それをしないで飽くまでエラそうなスタンスを保持したがるのはなんなのか。別にそれがこの人の芸風だろうからそれはそれでいいけど。誰か幸せになるのその芸風で。本人は幸せになるのか。

「政治」と実にあっさりと切り離されることができる「文学」のほうでは、「死」と「終わり」を前提にすることで豊かで自由な生のあり方を模索しています、よかったよかった、ということだそうで。「人はいつか死ぬ、物事はいつか終わる。だからこそ一瞬一瞬を大切に生きようね」などというお説教は幾らでも昔からあるのだが、それと何が違うのか管理人にはわからなかった。

結論として「やっぱり国内思想の輸入業者」やって終わりだった、ということでよいのではないか。マッピング作業としてはそれほど悪くないものだったので、それは評価されて然るべき。それ以上のものを期待した管理人がおろかだったわけで、宇野氏は最初からマッピングがしたかったのでしょう。

「なんでマッピング作業するだけでそんなに偉そうになれるのか」という疑問はぬぐえないわけですが、価値観は人それぞれですからね。マッピング作業こそが至高の知的作業であり、マッピング作業が上手な俺はオタクどもを断罪する資格があるという価値観をお持ちなのでしょう。管理人には「他人のふんどしで相撲を取っている人が偉そうにしている」ようにしか見えないが、それはオリジナル信仰に毒された見方なのだろう。
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無題
あの人の、「とりあえず、根拠なくても上から目線で相手を制圧しにかかる」という手法自体、彼自身の嫌ってるこざかしいオタクの典型ですからねえ。

ああ言う知的ごろつきって、特にSF界隈なんかには昔から居たと思うんですけど、なんでSFマガジン編集部は引っ張り出してきたんでしょうかね?
喪男歴774年 2009/03/20(Fri)20:04:21 編集
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